大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (60) 大白法1101 令和05年05月16号

受持即観心




 受持即観心とは、衆生が妙法蓮華経の御本尊を受持し、題目を唱えることにより、成仏の観心境界を得ることができるという、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』に説かれる重要な法門です。

観心とは

 観心とは、教法を自己の心に観ずる実践修行を指し、具体的には天台大師が『摩訶止観』に、
 「夫〈それ〉一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り」(摩訶止観弘決会本中二九六)
と説くように、自らの一念心に三千の諸法が具足することを観じることです。大聖人も『観心本尊抄』に、
 「観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり」(御書 六四六)
と、自らの心に具足する地獄界から仏界までの十法界を見ることが観心であると説かれています。
 私たち人間界の衆生が、人界の命や、地獄・餓鬼・畜生のような低い命、また時に喜びの天界の命を現わすことがあるのは理解できます。しかし、大小乗の悟りを得ているとされる声聞・縁覚・菩薩や、仏の命が心の中にあると言われても到底信じることはできません。『観心本尊抄』にも、
 「十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり」(同 六四八)
とあるように、自らの観心境界で仏の命が具わっていることを信受し、それを現わすことは非常に難しいことです。受持即観心とは、自らの命に仏界の命を現わし、成仏の境界を開くという唯一最高の実践修行となります。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す

 『観心本尊抄』には、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(同 六五三)
と説かれ、総本山第二十六世日寛上人はこの文を、
 「此の文は正しく是れ受持即観心の義なり」(御書文段 二二七)
と釈されています。
 まず「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」とは、釈尊が仏になるために修した原因としての行と、仏になったという結果としての徳が、すべて妙法蓮華経に具足しているということであり、「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」とは、我ら衆生が妙法蓮華経の御本尊を受持し、題目を唱えることによって、成仏の因果を自らの心に受け、仏と等しく成仏を遂げられるということです。
 しかし、法華経『寿量品』にて久遠実成を開顕した釈尊は、久遠五百塵点劫というはるか昔に、それ以前より修した菩薩道によって成仏を遂げたと経文に説かれています。成仏の因果が妙法蓮華経の五字に具足するということは、経文には説かれていません。では、なぜ大聖人は、妙法蓮華経を受持するだけで仏の因行果徳を得ることができる、と説かれたのでしょうか。

日蓮大聖人は久遠元初の自受用身

 大聖人は『当体義抄』に、
 「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之〈これ〉有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり」(御書 六九五)
と、久遠五百塵点劫のさらに以前、未だ万物に名前すらない久遠元初に一人の聖人があって、因果倶時不思議の一法を覚智して妙法蓮華経と名づけ、それを師として修行したことによって妙因・妙果を同時に得て即身成仏を遂げたと、久遠元初自受用身の成仏の相を説かれています。
 すなわち、『寿量品』文上に説かれる久遠五百塵点劫の成仏は、真の仏の本地ではなく、衆生を導くための垂迹化他〔*1〕の成仏であり、久遠元初自受用身の真実の仏因仏果は妙法蓮華経の受持によって即身成仏を遂げたという本地自行〔*2〕にあるのです。この久遠元初の本仏の振る舞いを事行といいます。
 寿量品の文上に顕われない文底久遠元初の成仏の相を大聖人が明かされているということは、御自身が久遠元初自受用身であるからに他なりません。

事行の題目

 大聖人は『三大秘法稟承事』に、
 「釈尊より上行菩薩に付嘱された要法とは、久遠元初の本仏が実相証得の当初に修行したところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である(趣意)」(同 一五九三)
と説かれています。久遠元初の本仏は『寿量品』の本尊・戒壇・題目、つまり三大秘法を修行したことによって仏になったのであり、三大秘法の根源は久遠元初自受用身の事行の振る舞いにあるのです。末法出現の日蓮大聖人は、久遠元初の悟りを一身に所持される人法一箇の上から、その悟りの当体を三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊として事相の上に顕わされ、そこに信行具足の題目を唱えて即身成仏を遂げるという事行の振る舞いを、化他のため一切衆生にも開かれました。つまり、私たちが三大秘法を受持することは、久遠元初自受用身の事行をそのまま実践することであり、故に私たちの観心に本仏の因果の功徳を得て即身成仏することができるのです。

受持とは

 日寛上人の『観心本尊抄文段』(御書文段二二八)には、受持即観心の受持とは、つまるところ御本尊に信行具足の題目を唱えることであると説かれています。すなわち信とは、この御本尊より外に仏になる道はないと信じる力、信力であり、行とは一切の余事を雑えずに題目を唱える行力となります。そこに御本尊の功徳である法力と御本仏の大慈大悲である仏力が相応して、一切衆生に受持即観心の成仏の道が開かれるのです。
 大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
 「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(御書 七七五)
と説かれ、仏法を受けることは容易いが、それを持続することは難しい。成仏は困難を乗り越えて仏法を受持し続けるところにある、と説かれています。
 私たちは「成仏は持つにあり」との御金言を胸に、自ら受持即観心の功徳を享受すると共に、いよいよこの有り難い仏法を折伏弘通してまいりましょう。

*1垂迹化他 仏が衆生を導くために、方便として迹の姿を現わして他を導くこと。
*2本地自行 久遠元初の本仏が初めて成道を遂げて仏になったときの本地における自らの行。

  次回は、「三国四師」について掲載の予定です

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