大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (64) 大白法1105 令和05年07月16号

衣座室の三軌
五十展転随喜の功徳



衣座室の三軌

 法華経『法師品第十』には、釈尊の在世及び滅後に法華経を修行し、弘通する者の振る舞いについて説かれています。

 衣座室の三軌とは

 「衣座室の三軌」とは、滅後に法華経を弘通する者が心に留めるべき三つの軌範です。弘教の三軌ともいい、また衣座室は、室衣座ともいわれます。
 『法師品』には、仏の滅後に法華経のわずか一句を、ひそかに一人のために説く者であっても、その人は如来の所遣〈しょけん〉(仏の使い)であり、如来の事(仏の振る舞い)を行ずる者であるとし、いわんや大衆のために広く説く者は言うまでもない、と示されます。そして、法華経は諸経の中の最第一の経典であり、法華経を見て読誦するだけで成仏へと近づく、大いなる功徳を具えた経典であることが説かれています。
 さらに、
 「此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し。况んや滅度の後をや」(法華経三二六)
と、法華経を受持することは、仏の在世でさえ怨嫉が多いのであるから、滅後の悪世ではなおさらであるとし、滅後の法華経弘通の者には仏が衣をもって覆い、諸仏に護念せられ、仏が頭を摩でてこれを讃歎するであろうと、さらなる弘通を勧められます。そして弘通をどのように実践すべきかについて、
 「若し善男子、善女人有って、如来の滅後に、四衆の為に、是の法華経を説かんと欲せば、(中略)如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是なり。如来の衣とは柔和忍辱の心是なり。如来の座とは一切法空是なり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩、及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし」(同 三二九)
と、如来の室衣座をもって法を説くべきことが説かれます。
 「如来の室」とは、すべての人を成仏させたいと願う慈悲の心に住すること。
 「如来の衣」とは、どのような侮辱・迫害があろうとも、受忍して柔和に振る舞うこと。
 「如来の座」とは、一切諸法が空にして平等であると認識し、あらゆる執着を捨てること。
です。その上で、懈怠なく法華経を弘通するようにと示されるのです。

 衣座室で畏れるところなし

 『法師品』ではさらに、
 「若し人此の経を説かば 応に如来の室に入り 如来の衣を著 而も如来の座に坐して 衆に処して畏るる所無く 広く為に分別して説くべし」(同 三三一)
と、如来の衣座室によって法を説くならば、何ら畏れるところはないとして、次のように示されます。
 すなわち、もし誰も法を説く相手がいなければ、諸天善神を遣わして、諸天がその説法を聞くであろう。もし危害を加えられるなどの困難が生じれば、変化の人を遣わして守らせるであろう。仏の滅後に衣座室によって法を説く者は、諸仏に守られ、その人に近づく人も成仏の道を得るであろう、と
説かれるのです。
 私たちが衣座室の三軌によって折伏を行うということは、仏と同じ威儀を具え、仏の振る舞いをするということです。どんな人が相手でも恐れる必要はなく、また、どんな困難があっても仏の加護によって守られると確信し、折伏を進めていくことが重要です。

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五十展転随喜の功徳

 法華経『随喜功徳品第十八』では、法華経を聞いて随喜(素直に信じ歓喜すること)の心を生じること(初随喜)の功徳が説かれ、「五十展転随喜の功徳」は、その中に説かれる法門です。
 すなわち、法華経の説法を聞いた人が随喜の心を起こして両親や友達などに、それぞれの力をもって法を説き、それを聞いた人が歓喜してまた転教し、それが展転して五十人目に至った時の、五十人目の人の功徳です。
 五十人目の人は、法華経の一偈を聞いても一分の理解もなく、ただ随喜しただけで、その教えが五十展転する中で損減し、次の人に伝える化他もしていないという、法華経のごくわずかな功徳を得た人となります。

 五十展転の随喜は八十年の布施に勝る

 『随喜功徳品』には、五十展転随喜の功徳が絶大であることを示すため、八十年間にわたり布施を行った施主のことが説かれます。
 この人は八十年もの長きにわたりすべての六趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)にあらゆる娯楽を与え、一閻浮提に満つるほどの珍宝を施し、八十年過ぎた後に仏法を説いてすべての六趣に声聞の最高の悟りである阿羅漢果を得させました。この施主の功徳は無量無辺ですが、経文には、
 「(施主の)所得の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かじ。百分、千分、百千万億分にして、其の一にも及ばし。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり」(同 四六七)
とあり、この施主の功徳は、先ほどの法華経を聞いて随喜しただけの五十人目の人の功徳に百千万億分の一にも及ばないと説かれるのです。それに比べ、
 「是の如く第五十の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり。何に況んや、最初会中に於て、聞いて随喜せん者をや。其の福復勝れたること、無量無辺阿僧祇にして、比ぶること得べからず」(同 四六八)
と、最初に説法の座で法華経を聞き随喜した人の功徳は五十人目の人の功徳の無量無辺阿僧祇倍であり、比べることができないと示されます。それだけ、法華経を聞いて随喜することには絶大な功徳があるのです。

 一念信解・初随喜は名字即の位

 大聖人は『四信五品抄』に、一念信解と初随喜(法華経を聞いて信を起こし、随喜する位)は、一念三千の宝筺(宝の入った箱)であり、末法の衆生が成仏を遂げるべき名字即(一分の理解もなく、ただ信心を起こしただけ)の位であると説かれています。
 すなわち『四信五品抄』では、末法の衆生は難しい教理内容を理解する必要はなく、信を以て智慧に代える「以信代慧」の信が重要であり、また持戒などの難しい修行も必要ないとして、
 「末代初心の行者に何物をか制止するや。答へて曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり」(御書 一一一三)
と示されています。
 つまり、布施や持戒はむしろ制止して、信心をもって南無妙法蓮華経と唱えることのみが、末法の成仏の要であると説かれるのです。
 私たちの信心において重要なことは、信心に住して題目を唱え、喜びを生じ、その喜びを伝えていくことなのです。さらにその功徳が絶大であることを胸に留め、折伏に精進してまいりましょう。

  次回は、「歴劫修行と即身成仏」について掲載の予定です

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