大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (66) 大白法1113 令和05年11月16号

臨終正念



 臨終とは臨命終時、命のまさに終わろうとする時のことです。
 臨終正念とは臨終に際し、心を乱さず、正しい念慮を持ち、成仏を願って題目を唱えつつ命を終えることです。
 日蓮大聖人は『妙法尼御前御返事』に。
 「人の寿命は無常なり。(中略)されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(御書一四八二)
と、人の命ははかないものであり、死は必ず訪れるものだから、まず臨終のことを学習しなければならないと御教示されています。

 三世の生命と今世の因縁

 仏教では、あらゆる衆生が過去・現在・未来の三世に旦る永遠の生命を持ち、今世の命は過去世からの様々な因縁によって起こったものであり、今世を終えれば別の因縁によってまた来世を迎える、と説きます。
 法華経『如来寿量品』では、仏が久遠已来常住であることが説かれ、十界互具・一念三千の原理の上から、一切衆生も仏子(仏性を有する者)として三世永遠であることが確立しました。
 衆生が仏子たることを自覚して仏の教えのままに妙法を受持し、信心修行していけば、三世に旦り成仏の安穏な境界を築くことができます。
 これに反して、妙法を受持せず、背いて悪業を作るならば、苦しみの境界を流転していくというのが、厳たる仏法の因果の法則です。
 私たちは、過去世の尊い宿縁によって人界に生を受け、しかも正法に巡り合わせていただいているのですから、今世の生命を御法に捧げ、来世においても必ず仏縁に触れて、未来永劫の成仏が叶えられるように、不退のの信心を貫くことが肝心です。

 大聖人の御教示に見る臨終の心構え

 南条時光殿の父の兵衛七郎は、文永元(一二六四)年頃病に罹りますが、その頃、近親者が兵衛七郎を念仏に引き戻そうとしていました。
 大聖人は兵衛七郎に対し、法華経を捨てて念仏を信仰するようなことがあれば来世は必ず無間地獄に堕ちると、厳しく誠められました(南条兵衛七郎殿御書・御書三二五)。
 大聖人の御指南を受け、兵衛七郎は最期まで信心を貫き通し、翌文永二年に亡くなります。大聖人は兵衛七郎が成仏を遂げたと述べられると共に、時光に法統相続がなされたことを喜ばれています(南条後家尼御前御返事・御書七四一)。
 また、石河新兵衛の娘(南条時光の姪)は、病により自らの死期が迫っていることを察し、従容として死を受け入れ、大聖人に別れの手紙を認めて、その二週間後に題目を唱えつつ亡くなったとされます。この時の年齢は二十歳前後であったと思われます。
 大聖人は『上野殿御返事』に、
 「此の尼御前は日蓮が法門だにひが事に候はゞ、よも臨終には正念には住し候はじ」(同一二一九)
と、新兵衛の娘が若いながらも臨終正念によって成仏を遂げた立派な姿は、日蓮の法門に間違いがないことを証明してくれていると、その信仰を讃嘆されています。
 さらに『松野殿御返事』には、
 「但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱へ候ひて、最後臨終の時を見させ給へ」(同一一六九)
と、成仏のためには常に題目を唱え、臨終の時までそれを貫くことが重要であることを御教示されています。

 日寛上人の御指南

 総本山第二十六世日寛上人は、臨終正念の大事について、『臨終用心抄』に著されています。
 その中の法門のいくつかを紹介します。

 多念の臨終・刹那の臨終

 多念の臨終とは、日頃より、死は今日ただ今なりと心がけて常に題目を唱え、信行を積み重ねることです。
 また、刹那の臨終とは、最期臨終の刹那の一念に、題目を唱えることです。
 日寛上人は『臨終用心抄』に、
 「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也」
と仰せられ、臨終の刹那に正念をもって題目を唱え、成仏を遂げられるかどうかは、常日頃から臨終ただ今なりと心得て、日々、悔いのないよう仏道修行に励むことが重要であると教示されています。

 臨終正念を妨げる三事

 日寛上人は続けて、臨終正念を妨げる三つの要因を挙げられています。
@断末魔の苦のゆえ
 断末魔の苦のゆえとは、「断末魔の風」によってもたらされる妨げです。今生の命を終え魂が肉体を離れる時には、苦しみがあるとされます。
A魔障のゆえ
 魔障のゆえとは、三障四魔等の魔障が、臨終正念を妨げることです。
 衆生が成仏を遂げようとする時には魔が現われ、それを妨げようとする用きが起こります。臨終の時まで、片時の油断もならないのです。
B妻子従類の歎きの声と財宝等に執着するゆえ
 妻子眷属の嘆きの声や、臨終を迎える本人の財宝などへの執着が、臨終正念を妨げるとの意味です。
 このように、最期臨終の時に正念をもって題目を唱え成仏を遂げることは、非常に困難なのです。そこで、自らの信心はもちろんのこと、それを見届ける周囲の人も、強い信心によって題目を唱えることが重要であるとされます。

 臨終の相について

 また日寛上人は、同じく『臨終用心抄』に、
  「臨終の相に依って後の生所を知る」
と御指南されています。
 これは『千日尼御前御返事』に、
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引〈ちびき〉の石〈いわ〉の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛〈がもう〉の如し、軟らかなる事兜羅綿〈とろめん〉の如し」(御書一二九〇)
とあるように、堕地獄の者は色黒く大人数で引かないと動かせない石のように重くなり、成仏を遂げる者は色白く羽毛のように軽く、綿花のようにやわらかくなるとの教示によるものです。
 堕地獄の要因の最たるものは謗法です。御書には、邪説を打ち立てた中国の三階禅師が現身に大蛇となって弟子を呑み食らい(松野殿御消息・御書九五二)、中国浄土宗の善導が柳の木から飛び降りて七日七晩もだえ苦しんで死んだ(念仏無間地獄抄・御書四一)などの例が示されています。
 しかし、私たち凡夫が、死相の良し悪しだけで成仏・不成仏を判断することはできません。
 日寛上人は、謗法者の死相がたとえ善相であるように見えても必ず地獄に堕ちること、また、法華本門の行者の死相がたとえ不善相のように見えても成仏は疑いないことを、さまざまな経典などを引用して述べられています。すなわち、成仏・不成仏は法の正邪と信仰の如何によるのです。
 私たちの周囲には、生前に入信に至らず、臨終正念を遂げられなかった人も少なからずいると思います。大聖人が師匠・道善房の没後に菩提を弔われたように、そうした人も御本尊の功徳と追善回向によって必ず成仏を遂げられるのであり、私たちは、自他共の成仏を願って折伏弘通・信心修行に励むことが大切です。

  次回は、「地涌の菩薩」について掲載の予定です


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