大白法 仏教用語解説 三種九部の法華経

  仏教用語の解説 (71) 大白法1125 令和06年05月16号

三種九部の法華経



 三種九部の法華経とは、法華経について@文・義・意、A種・熟・脱、B広・略・要という三種の判釈があり、これによって、都合、九種の分別が生じることをいいます。
 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「当抄に於て重々の相伝あり・所謂三種九部の法華経」(御書文段一八九)
と、本宗で『観心本尊抄』について重々の相伝があるうちの第一に、三種九部の法華経を挙げられています。

 文・義・意

 文義意の「文」(文の法華経)とは経文、「義」(義の法華経)とは経文に示される道理・義理、「意」(意の法華経)とは文と義の根源となる元意、仏の本意を意味します。
 法華経における「文」とは一部八巻二十八品の経文です。法華経迹門では諸法実相や開三顕一、本門では久遠実成等、すべての経文に説かれている内容がそれにあたります。
 「義」とは文によって明らかとなる義理で、迹門では十界互具、理の一念三千、本門では発迹顕本や事の一念三千等の教理がそれにあたります。
 「意」とは文・義を生ずる根源となる仏意のことです。『四信五品抄』に、
 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ」(御書一一一四)
とあるように、意の法華経とは、文底下種の妙法蓮華経の五字を指します。単なる題目(お経の題名)ではありません。
 『三大秘法抄』に、
 「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(同一五九五)
とあるように、法華経の元意は三大秘法であり、意の法華経とは三大秘法の随一となる本門の本尊がこれにあたります。

 種・熟・脱

 種熟脱とは、下種益・熟益・脱益の三益のことで、仏が衆生を成仏へと導き利益する過程を、作物の生育過程に譬えたものです。
 「下種益」とは、田畑に作物の種を植えつけるように、仏が衆生の心田に成仏の種子を植えつけること。
 「熟益」とは、種子が発芽し生育するように、仏が衆生に様々な教法を説き、種子を調熟させること。
 「脱益」とは、成熟した果実を収穫するように、衆生を成仏得脱させることです。
 種熟脱の三益は、法華経にきて初めて説かれる法門で、その意義は、仏の化導の目的が、法華経による衆生の成仏にあることを明らかにするものです。
 ただし大聖人が『観心本尊抄』に、
 「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(同六五六)
と示されるように、釈尊在世の脱益の衆生に対する純円の法は「文上脱益の一品二半」、末法の下種の衆生に対する純円の法は「題目の五字」で、脱益と下種益では、教法に違いがあることを教示されています。
 すなわち三種九部のうちの種熟脱とは、「種」(種の法華経)・「熟」(熟の法華経)・「脱」(脱の法華経)を分別することです。三益において筋目を正さなければならないのが、釈尊在世の熟益・脱益の化導と、末法の御本仏日蓮大聖人による下種益の化導です。
 大聖人は『曽谷入道殿許御書』に『法華文句』の、
 「本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」 (法華文句記会本下四五二)の文を引用し、
 「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(御書七七八)
と、末法の衆生は本末有善の機根であるから、釈尊が本已有善の機根に対して権教方便を説いてから脱益に導いたような化導はせず、不軽菩薩がただちに妙法を説いて逆縁を結んだように、末法の本未有善の衆生に対して、ただちに妙法を説いて下種すべきであると説かれているのです。

 広・略・要

 『法華題目抄』に、
 「一部八巻二十八品を受持読誦し、随喜護持等するは広なり。方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり・但一四句偈乃至題目計りを唱へとなうる者を護持するは要なり。広略要の中には題目は要の内なり」(同三五五)
とあるように、広・略・要の法華経のうち、「広」(広の法華経)とは、広く法華経一部八巻二十八品を受持・読・誦等すること。「略」(略の法華経)とは法華経迹門の中心である『方便品』と、本門の中心である『寿量品』の二品を受持・読・誦等すること。「要」(要の法華経)とは、題目を唱え護持することです。
 『法華取要抄』に、
 「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(同七三六)
とあるように、要の法華経である題目の五字とは、釈尊から上行菩薩に結要付嘱された妙法五字であり、その意味するところは、本門の本尊を護持し、本門の題目を唱えることです。

 末法における正しい行法とは

 法華経は、久遠以来衆生を成仏に導いてきた経典ですが、衆生の機根や時に応じて、様々に説かれてきました。法華経を三種九部に分別する時、末法の今、どのように法華経を受持すべきかが判るのです。
 日寛上人が『撰時抄愚記』に、
 「法華経とは、今末法に於ては即ち是れ本門の本尊の妙法蓮華経の五宇なり。是れ則ち広・略・要の中には要の法華経なり。文・義・意の中には意の法華経なり。種・熟・脱の中には下種の法華経なり。故に知んぬ、能く末法に於て本門の本尊・妙法蓮華経を唱え信ずる人は、即ち是れ真実の釈子なり」(御書文段 二九二)
と御教示されているように、末法の今、衆生が受持すべきなのは、広略要の要の法華経、文義意の意の法華経、種熟脱の種の法華経であり、それは、大聖人が建立された三大秘法を受持することなのです。
 『上野殿御返事』に、
 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書 一二一九)
とあるように、末法では、法華経を含む釈尊が説いたあらゆる教法は力を失い、ただ大聖人が説かれた南無妙法蓮華経、三大秘法によってのみ衆生の成仏が叶うのです。その三大秘法を建立されたのは末法の御本仏日蓮大聖人であり、熟脱の仏である釈尊ではありません。
 しかし、日蓮宗などは、釈尊を本尊と立て、法華経の二十八品すべてを読誦するという行法を行っています。
 私たちは三種九部の法華経の意義を踏まえ、いよいよこうした人たちに日蓮大聖人の仏法の正義を広めてまいりましょう。

 次回は「四弘誓願」について掲載の予定です

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