大白法 仏教用語解説 五重相対@ 内外相対・大小相対

  仏教用語の解説 (74) 大白法1131 令和06年08月16号

五重相対@

内外相対・大小相対



 今回から五重の相対について、各相対ごとに解説します。
 五重相対とは、一切の宗教や思想を五段階に比較相対しながら、最も勝れた教えである日蓮大聖人の仏法を選び取るための教相判釈(教判)です。
 日蓮大聖人が『開目抄』に示され、さらに日寛上人が内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対の五つに整足されました。
 五重相対は、五重三段とともに、大聖人独自の教判として最も重要です。

 内外相対

 内外相対の「内」とは、内道である仏教、「外」とは仏教以外の外道を意味します。『開目抄』に、中国の儒教とインドの三仙・六師を外道の代表として挙げ、破折されているので、それに添って解説します。

 ・儒教の内容と破折

 儒教では、五常(仁・義・礼・智・信)をもとに、礼節や忠孝などの人倫道徳が示されますが、こうした儒教思想は、つまるところ周公旦・孔子の「有の玄」、老子の「無の玄」、荘子の「亦有亦無の玄」にあると説かれています(御書五二四)。
 「有の玄」は、一切の存在は実有で、天地の根源(玄)に太極・元気といわれるものがあって、そこから陰・陽が次第に分かれて森羅万象を生じているとする考え方。
 「無の玄」は、天地の根源は虚無で、無為自然のあり方に本当の道があるという考え方。
 「亦有亦無の玄」は、万物の姿は自然をもととし、そのなかに有の辺と無の辺があるという考え方です。
 大聖人はこれらについて、万物のあり方や現世に生きる人の道を巧みに説いてはいるが、三世・因果の正しい道理を知らないため、結局は正しい道を説いてはいない、と指摘されています。

 ・インド外道の内容と破折

 儒教が倫理偏重であるのに対し、釈尊以前より存在したバラモン教などのインド外道は、一応の因果も説き、内容も非常に複雑です。
 代表的なものに、「結果は原因に含まれる(因中有果)」という説を立てる迦毘羅外道、「原因と結果は別のものである(因中無果)」という説を立てる●(水+區)楼僧●(人+去)外道、「因果はないともいえるし、あるともいえる(因中亦有果亦無果)」という説を立てる勒娑婆外道、ほかにも六師外道といわれる六人の外道の論師がいました。そのなかには、無道徳を説く者、あらゆるものを疑う懐疑論者、苦行による解脱を説く者など様々です。
 こうした思想は、すべて見惑(思想的な誤り)といわれる煩悩がもとになっています。見惑の代表的なものとして、「身見(我に本性があるとする我見と、自分の周りのものはすべて自分の所有だと考える我所見)」、「辺見(我と我の所有は死後に断絶すると考える断見と、死後も常住不滅だとする常見)」、「邪見(因果などないと考えること)」、「見取見(劣ったものを勝れていると考えること)」「戒禁取見(間違った戒律や因果を悟りの道だと考えること)」の五つがあります。
 外道にはほかにも、絶対神に死後の平安を祈るキリスト教やイスラム教もありますが、身見や邪見がもとになっているという点では、インドの外道と同じといえるでしょう。
 外道について大聖人は、
 「外道の所詮は内道に入る即ち最要なり」(御書五二五)
と説かれています。
 外道の教えを、一定の人倫道徳や人の進むべき道を説くという面では仏法の初門とみることもできます。しかし、三世の生命と因果の道理を正しく説かないので、人々を救うことはできません。
 結論として、内道である仏教は三世に亘る仏道の因果の理を説くので勝れ、外道は適切な三世に旦る因果の理法を説かないので劣るのです。

 大小相対

 大小相対とは、仏教における大乗教と小乗教の比較相対判です。
 「乗」とは乗り物の意で、小乗教が個人の解脱(自利)のみをめざす小さい乗り物であるのに対し、大乗教は自らの成仏(自利)とともに他をも利益(利他)し、成仏させようとめざす大きな乗り物であることから、この名前があります。
 小乗教は、インド出現の釈尊が初期の十二年間、鹿野苑で声聞・縁覚等に説いた『阿含経』を指します。主な教理内容は、四諦や十二因縁です。
 四諦とは苦諦(一切衆生は苦しみの存在であるということ)・集諦(苦の原因が煩悩の集積にあるということ)・滅諦(修行により煩悩を滅し、苦しみから離れること)・道諦(苦しみから離れる方法が八正道の実践、修行にあるということ)の四つの真理のことです。
 十二因縁とは、生命が苦しみながら三界六道を流転するのは、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死という十二の状態の縁起(因果関係)にあることを説いたものです。十二因縁のうち、無明・行は過去の二因、識・名色・六入・触・受は現在の五果、愛・取・有は現在の三因、生・老死は未来の二果となります。
 衆生が苦しみながら生死を繰り返す根源は、無明(無智)にあり、無明を滅すれば三界六道を離れ、解脱に至ると説くのです。
 こうした教えをもとに、小乗仏教では徹底した空理を説き、悟りの果として有余涅槃、無余涅槃(阿羅漢果)が示されました。
 有余涅槃とは、煩悩を断じ尽くしても、そのよりどころとなる肉体が残っている状態です。無余涅槃は灰身滅智ともいい、有余涅槃よりさらに進んで、心身ともに煩悩の束縛を離れた状態を意味します。
 大聖人は『大田殿女房御返事』に、
「二乗と申す者は鹿苑にして見思を断じて、いまだ塵沙・無明をば断ぜざる者が、我は已に煩悩を尽くしたり。無余に入って灰身滅智の者となれり。灰身なれば即身にあらず。滅智なれば成仏の義なし」(御書一四七一)
と説かれています。
 鹿野苑で説かれた小乗仏教によって二乗が断じた煩悩は、見惑・思惑のみであり、塵沙惑・無明惑という無数の煩悩は未だ断じてはいないのです。また、無余涅槃に入った者は、永遠に身心を滅してしまうため即身成仏も叶わなくなってしまいます。
 小乗仏教には細かな戒律があり、その実践のためには山林に交わり、人との関わりを断つ必要があります。このような教えを、誰もが実践することは不可能です。
 これに対し大乗仏教は、成仏をめざす菩薩のための教えであり、菩薩は四弘誓願によって、自らの成仏のみでなく一切衆生をも利益し、成仏させることをめざす価値の高い教えです。
 仏が世に出現した目的は一切衆生を成仏に導くことにありますから、自分一人の解脱をめざす小乗仏教が、仏の本意ではないことは明らかです。大乗仏教でなければ、今より以後、将来にわたっての一切衆生を救済することができないのです。
 つまり小乗教と大乗教を比較したとき、必ず大乗教を選び取らなければならないのです。

  次回は、「権実相対・本迹相対」について掲載の予定です

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