大白法 仏教用語解説 五重相対A 権実相対・本迹相対
仏教用語の解説 (75) 大白法1135 令和06年10月16号
五重相対A
権実相対・本迹相対
今回は、五重相対のうち権実相対・本迹相対を解説します。
権実相対
権実相対とは、釈尊が法華経以前に説いた爾前経(権教)と、法華経(実教)との比較相対です。爾前経は、法華経を説くための権りの教えなので権教、法華経は仏の真実本懐の教えなので実教といいます。
・法華経こそ一切衆生成仏の教え
法華経の開経として法華経の直前に説かれた『無量義経』には、
「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経二三)
と、法華経以前の爾前四十余年間の説法は、性質や欲するところが異なる衆生を導くために説いた方便であり、未だ真実の教えではないことが示されます。
また、法華経『方便品第二』では、仏が出現する目的は、法華経を説いて一切衆生を成仏に導くという一大事因縁にあることが明かされ(法華経一〇二)、さらに、
「方便力を以ての故に 種種の道を示すと雖も 其れ実には仏乗の為なり」(同一一九)
と、爾前において、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の異なる教えを説いたのは、一仏乗の法華経を説くための方便であると、開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕わすこと)が説かれました。
爾前権教では、二乗は永久に成仏することができない(永不成仏)とされ、また女人や悪人も成仏できないとされてきました。しかし法華経では、一切衆生の一念には地獄界から仏界までの命が互具するという一念三千が説かれ、これにより二乗をはじめ、一切衆生に成仏の道が開かれたのです。二乗に成仏が許されることを二乗作仏といいます。
・始成正覚と久遠実成
また、爾前権教から法華経迹門までの釈尊は、インドに誕生し、十九歳で出家し、三十歳で始めて成道を遂げた始成正覚の仏であるとされてきました。
ところが法華経『如来寿量品第十六』で釈尊は、
「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(同 四二九)
と、久遠五百塵点劫というはるか昔に成道した仏であると、久遠の本地を開顕しました。これを久遠実成といいます。
これにより、爾前経を説いた釈尊は、本仏が衆生化導のために迹を垂れた垂迹の仏であり、その説法も方便の教えであることが明らかとなりました。そして法華経のみが本仏の真実の教えであることが示されたのです。
つまり、爾前権教と法華経を相対したとき、法華経には二乗作仏などの十界皆成(十界の衆生がすべて成仏すること)と、久遠実成が説かれるという二点から、法華経(実教)が爾前経(権教)より勝れた教えであることが明らかです。
本迹相対
本迹相対とは、法華経のうち、前半十四品と、後半十四品とを比較相対する判釈です。
法華経の前半は、釈尊が未だ久遠五百塵点劫の本地を開顕する以前の垂迹の仏の説法であることから迹門(垂迹門)、後半は本地開顕の説法であることから本門(本地門)となります。
・法華経迹門の一念三千と受記作仏
法華経迹門の『方便品第二』では、諸法実相・一念三千の法理が説かれ、さらに『授学無学人記品第九』までの三周の説法により、法華経の会座にいた多くの弟子たちも一念三千を信解し、成仏の記別(仏が将来の成仏を証すること)を授かりました。しかし、その記別は未来世において、娑婆世界以外の国土において成仏することを証するもので、即身成仏ではなく、実体に乏しいものでした。
また、記別を授けた釈尊も、始成正覚の迹仏で、久遠五百塵点劫の本地を明かしていないため、釈尊がいつどのようにして一念三千を悟り、仏になったのか、本源が明らかではありませんでした。
したがって、法華経迹門の一念三千は理論上の法門となり、二乗作仏も、実体のない状態にとどまります。これを本無今有(本無くして今有り)・有名無実 (名のみあって実なし)の二失といいます。本無今有とは、釈尊が久遠の本地を顕わさず、垂迹のみを示すこと。有名無実とは、一念三千や衆生の成仏が、名目のみであって実体がないことを指します。
・寿量品における本地開顕と三妙合論
釈尊は本門の『寿量品第十六』において、自身の本因妙、本果妙、本国土妙の三妙を合わせて説き(三妙合論という)、本無今有・有名無実の失を破ります。
本因妙とは、
「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」(同四三三)
との文により、釈尊が、久遠五百塵点劫以前における菩薩道の修行によって成仏を遂げたと、成仏の根本の因行が説かれたことです。
本果妙とは、
「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」(同)
との文により、釈尊が久遠五百塵点劫において仏果を成就した仏であると説かれたことです。
本国土妙とは、
「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(同四三一)
との文により、娑婆世界こそが釈尊が常住する真実の仏国土であると説かれたことです。
さらに釈尊は、久遠五百塵点劫より衆生を教化してきたと、仏と衆生の久遠以来の関係も説示しました。
釈尊の本地、悟りの本源が、久遠五百塵点劫にあり、穢土と嫌われてきた娑婆世界が、実は本仏常住の仏国土で、一切衆生も仏とともに三世永遠であることが明らかになったことにより、法華経迹門の本無今有・有名無実の二失は消え去り、一切衆生が法華経によって即身成仏を遂げるという、成仏の因縁と実体が明らかとなったのです。このように、一切衆生の成仏の実義は法華経本門にあり、迹門に対して本門は勝れるのです。
・迹門と本門は水火・天地の異なり
大聖人は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり(中略)而るを本迹を混合すれば水火を弁へざる者なり」(御書 二三六)
と、迹門と本門には大いなる相違があることを教示されています。また『観心本尊抄』(御書六六〇)には、天台大師が説いた一念三千は、迹門を表としたもので、本門の事行の南無妙法蓮華経ではないと説かれています。
末法の衆生は、大聖人が説き出すところの本門事行の南無妙法蓮華経でしか成仏することはできないのであり、たとえ法華経を中心とする天台宗であっても時機不相応の迹門の仏法として、用いてはならないのです。本迹相対には、天台・伝教の教えに対して、大聖人の教えが勝れるという意義もあるのです。
次回は、「種脱相対」について掲載の予定です
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