大白法 仏教用語解説 霊山浄土

  仏教用語の解説 (79) 大白法1149 令和07年05月16号

 霊山浄土



 霊山とは、釈尊が法華経を説いた場所である霊鷲山の略で、霊山浄土とは、その霊鷲山が本仏の常住する浄土であるという意味です。
 霊鷲山は、現在のインド北東部、古代インドのマガダ国の首都、王舎城の近くにあった山です。インドの言葉では鷲の山を意味する「ギッジャクータ」、音訳して「耆闍崛山〈ぎしゃくっせん〉」といいます。
 名前の『鷲』の由来について『大智度論』(大正蔵二五巻七六c)には、山がハゲワシの頭部に似ているから、または鷲が多く住む山だからである、と記されています。
 「霊」を冠する理由について『法華文句』(法華文句会本上八五)には、仏をはじめ、聖霊のいる所だからであると示されます。
 この霊鷲山において釈尊は、法華経のみならず、様々な経典を説かれました。

 四種の浄土(四土)

 天台大師は浄土に、四種の別(四土)があると説きました(観無量寿経疏・大正蔵三七巻一八八b)。
@凡聖同居土〈ぼんしょうどうごど〉
 四種の土の一つ目、凡聖同居土は、文字通り凡夫と聖者(声聞や縁覚)がともに住している国土で、これには浄土と穢土がある。浄土とは阿弥陀仏が住する清浄な極楽。穢土とは不浄で満ちている娑婆世界。
A方便有余土〈ほうべんうよど〉
 見思惑(思想・事象についての迷い)を断じ、三界の生死の苦しみを離れた声聞・縁覚・菩薩の住する国土。
B実報無障礙土〈じっぽうむしょうげど〉
 一分の無明惑を断じ、中道実相を悟る高位の菩薩のみが住する国土。
C常寂光土
 永遠の悟りを得た仏の住する国土で、絶対の浄土。
 この四種の区別から判るように、爾前経において娑婆世界は、けがれた者の住む迷いの世界、穢土として嫌われてきました。『阿弥陀経』(大正蔵一二巻三四六c)では、この娑婆世界より西方十万億の仏土を過ぎた所に阿弥陀仏の住する極楽浄土があるとされ、さらに『無量寿経』(大正蔵一二巻二六八a)には、心を尽くして念仏し、阿弥陀仏にすがれば、死後に極楽浄土に生まれることができると説かれます。この説にも基づき念仏宗では、娑婆世界での成仏を否定し、念仏によって極楽浄土への往生成仏を願うのです。

 霊山浄土の明文

 霊鷲山で法華経の説法を開始された釈尊は、如来寿量品第十六において、始成正覚(インドに出現した釈尊が伽耶城菩提樹下で始めて仏になったということ)の垂迹身を払い、実は久遠五百塵点劫のはるか昔に成道していたという久遠実成の本地を明かし、娑婆世界は本来、清浄な仏国土であることを説かれました。
 そして自我偈に、
 「我仏を得てより来〈このかた〉経たる所の諸の劫数無量百千万億載阿僧祇なり(中略)衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く(中略)衆我が滅度を見て広く舎利を供養し 咸〈ことごと〉く皆恋慕を懐いて 渇仰〈かつごう〉の心を生ず 衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出ず」(法華経四三九)
とあります。
 すなわち、我(本仏)の成道は、無量千万億阿僧祇(久遠五百塵点劫)の昔であるが、衆生を化導するため、時に方便の涅槃の相を現じてきた。しかし実際にはここ(霊鷲山)に常住し説法してきたのである。衆生が方便の滅度を見て、仏に信伏し、舎利(仏の全身を具えた法華経)を供養するなど、素直に正直な心で、身命を捨てて仏に会いたいと願うならば、そのとき我と衆僧と共に霊鷲山に出て、相見〈まみ〉えるのである、と示されます。
 さらに、
 「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(同四四〇)
ともあり、劫末の炎が起こり、世界が焼き尽くされるようなことがあっても、仏の常住する霊鷲山および娑婆世界は安穏であり、天人の充満する金剛不壊の浄土であるとも示されます。このように寿量品には、霊鷲山(霊鷲山に事を寄せた娑婆世界全体)は、本仏が常住し、常に説法する浄土であると説かれているのです。

 「一心欲見仏 不自惜身命」の実証

 前に述べた自我偈には「一心欲見仏不自惜身命」と、身命を捨てる覚悟で仏を渇仰恋慕するならば、直ちに霊山浄土に列出して仏に見えることができると説かれています。
 『四条金吾殿御消息』に、
 「然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書四七八)
とあります。
 文永八(一二七一)年九月十二日の夜中、相模の国の江の島が見える海岸沿いの竜ロ(現在の神奈川県藤沢市の浜辺)で、大聖人は頸を切られようとしました。そのとき忽然と光り物が現われ、大聖人は凡夫日蓮としての魂を留め置き、久遠元初の自受用身として発迹顕本されたのです。
 つまり大聖人は、法華経の行者が身命を捨てる覚悟で正法を受持弘通するならば、どのような場所であっても寂光土になるという、霊山浄土の実証を示されたのです。

 大御本尊まします総本山こそ霊山浄土

 大聖人は『南条殿御返事』に、
 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(中略)かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(同一五六九)
と仰せられ、一大事の秘法を胸中に所持する日蓮大聖人の住処は霊山浄土に劣らないと教示されています。「一大事の秘法」とはすなわち本門戒壇の大御本尊です。本門戒壇の大御本尊と、大聖人の血脈を御所持される御法主上人のまします総本山大石寺こそが、末法における真の霊山浄土となるのです。

 霊山一会儼然未散〈げんねんみさん〉

 「霊山一会儼然未散」とは、霊山浄土の荘厳さと永遠性を示した語です。
 自我偈の「時我及衆僧倶出霊鷲山」の文について『御義口伝』には、
 「霊山一会儼然未散の文なり。(中略)事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり(中略)霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり」(同一七七〇)
と、霊山虚空会の儀式は今なお常住であり、正法を受持する者が御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えるところが霊山であると示されています。
 大聖人の御魂魄である大御本尊と、血脈御所持の御法主上人猊下がまします総本山大石寺が霊山浄土であることはもちろんですが、『一生成仏抄』に、
 「浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(同四六)
とあるように、浄土とは正法を受持する心の善なる者の住所であり、私たちが御本尊を受持し、折伏弘通に励む所は、すべて浄土となるのです。
 私たちは、濁乱の娑婆世界を浄土としていけるよう信心修行に邁進してまいりましょう。

 次回は、「雪山童子・寒苦鳥」について掲載の予定です。

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