大白法 仏教用語解説 雪山童子 雪山の寒苦鳥

  仏教用語の解説 (80) 大白法1151 令和07年06月16号

 雪山童子・寒苦鳥



 今回は、どちらも求道の志を教示する「雪山童子」と「雪山の寒苦鳥」について解説します。
 雪山とは、雪を冠した山のことで、ヒマラヤ山脈を指します。

 雪山童子

 雪山童子の故事は、釈尊の本生譚〈ほんしょうたん〉(釈尊の過去世の話)の一つとして『涅槃経』の聖行品(大正蔵一二巻四四九b・国訳一切経涅槃部一巻三〇二)に説かれています。

 ・概要

 釈尊が過去世に婆羅門の童子であったとき、一切衆生に楽を与えるために、欲を離れ、道を求めて雪山で苦行していました。
 それを見た帝釈は、婆羅門のそのような道念は信じ難いとして、童子を試そうとします。
 そこで、恐ろしい羅刹に姿を替えて童子に近づき、「所行は無常なり 是れ生滅の法なり」との半偈を説きました。
 常に道を求めていた童子は、半偈を聞いて、これが人々を救う教えであることを理解して大いに歓喜します。
 童子は、誰がこれを説いたのかとあたりを探しますが、羅刹しかいません。童子は、たとえ羅刹であったとしても、仏に会ってこの偈を得たに違いないと確信し、「残りの半偈を説くならば、私は死ぬまで汝の弟子となる」と、残りの半偈を説くよう願ったのです。
 しかし、羅刹が「飢えに責められて法を説くことができない」と言いましたので、「何を食べるのか」と尋ねると、羅刹は「人の温かい肉、人の温かい血なり」と答えました。
 童子は、「偈を聞き終われば我が身をもって施すべし」と誓って、重ねて半偈を説くよう願いました。
 すると、羅刹は「生滅を滅し已〈おわ〉りて 寂滅を楽となす」と、残りの半偈を説きました。
 これを聞いて所願満足した童子は、後世の人々を利益するため、石や壁、樹木や道など、あらゆる所にこの偈を書き残したのち、木に登って、羅刹のために身を投じようとしました。
 童子が登った木の樹神が、童子に「その偈には、どのような利益があるのか」と尋ねました。童子は「この偈は三世の諸仏が説く空の真理である。我はこの法のために身命を捨てるのである」と言って樹上から身を投じました。
 すると羅刹は、帝釈の姿となって童子の身を受け止め、帝釈をはじめ諸天善神が童子を礼拝し、「未来に必ず成仏するであろう」と讃嘆したのです。
 羅刹が説いた偈は「諸行無常偈」といわれ、空の理を説くものです。その意味は、「一切万物は無常であり、常に移ろい生滅を繰り返している。生滅の理を理解し、生滅を滅したところに寂静にして安楽なる悟りの境界がある」というものです。

 ・雪山童子の求法の姿

 雪山童子の捨身求法の故事には、修行者が理想とすべき姿が示されています。
 大聖人は様々な御書にこれを引かれ、不惜身命の模範とされています。
 『松野殿御返事』にも、
 「尤も後世を願はんには、彼の雪山童子の如くこそあらまほしくは候へ。誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば我が身命を捨て、仏法を得べき便りあらば身命を捨てゝ仏法を学すべし」(御書一〇五一)
と、雪山童子の姿を「あらまほし」、すなわち理想的・望ましいと仰せられています。
 雪山童子は空理を得るために身を捨てようとしたわけですが、私たちが求めているのは、末法万年の一切衆生を利益する広大無辺なる日蓮大聖人の仏法ですから、何はなくとも身を供養して法を求めることが大切です。

 雪山の寒苦鳥

 雪山の寒苦鳥とは、雪山に住み、寒苦に責められているという想像上の鳥をいいます。
 その出典は、経論には明らかではありませんが平安時代の説話集である『注好選』に収録され、『平家物語』にも「寒苦鳥」や「雪山の鳥」として名が挙げられています。

 ・説話の概要

 寒氷の絶えることのない雪山に、寒苦鳥という鳥がいました。この鳥は雪の穴に住んでいましたが、夜な夜な寒さに苛まれ「寒苦、我を殺さん。夜明くれば栖を造らん」(自分は寒苦に殺されてしまう。夜が明けたら、暖かな栖を造ろう)と鳴いていました。
 しかし、いざ夜が明けると、日の光に当たって翼をつくろい、巣を造るのは面倒で気乗りしません。
 「今日死ぬとも知らず、明日死ぬとも知らず、何故に栖を造作して、無常の身を安穏となさん」(今日死ぬか、明日死ぬか判らないのに、寒さをしのぐ栖を造ることで、無常の身を安穏とすることができようか)と言って栖を造るのをやめ、夜になると、また寒苦に責められるという愚かを繰り返すのです。
 大聖人は、御書にこの説話を引用されて、仏道を行ずる心構えを説き示されています。
 『新池御書』に、
 「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう」(御書一四五七)
と、仏道修行すべき時にそれを怠れば、苦しみ、後悔することになると誡められています。

 ・「一切衆生も亦復是くの如し」

 『新池御書』には、先の御文に引き続き、
 「一切衆生も亦復是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣〈さしお〉いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」(同)
と、一切衆生も雪山の寒苦鳥と同じ過ちを犯していることを御教示です。
 つまり、衆生が人界に生を受けた時を寒苦鳥の昼に、また、悪道に堕ちた時を寒苦鳥の夜になぞらえています。
 煩悩や名聞名利に執われて、善根を積まずに地獄に堕ちた衆生は、炎に焼かれて苦しむとき、昼の寒苦鳥のように「今度人に生まれたならば、何を差し置いても仏法僧の三宝を篤く敬い、仏道修行に励み、成仏しよう」と決意します。
 しかし、たまたま人として生を受けると、寒苦鳥が昼の暖かさに遊んでしまうように、目先のことに執われて大事な仏道修行を怠ってしまうのが常であると指摘されているのです。

 ・謗法を誡める

 法華経『譬喩品』には、十四誹謗(正法に対する十四種の謗法)が説かれています。
 その中には、慢心、怠け、欲望などによる様々な謗法が示されており、その果報として、
 「其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経一七六)
と説かれています。
 謗法は悪道に堕ちる原因、苦しみのもとですから、私たちは常に正法を求めて、怠りなく仏道修行をしていく姿勢が重要です。

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 本宗僧俗は、「雪山童子」と「雪山の寒苦鳥」の説話にあるように、常に不惜身命の精神をもって自行化他にわたる修行を貫くことが大切です。

 次回は、「開三顕一」について掲載の予定です

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