大白法 仏教用語解説 三草二木の譬・化城宝処の譬

  仏教用語の解説 (82) 大白法1159 令和07年10月16号

 三草二木の譬・化城宝処の譬



 「三草二木の譬」と「化城宝処の譬」は、法華経の七譬の一つとして、法華経迹門に説かれています。いずれも、迹門の中心法義である、開三顕一(前回掲載)を、衆生に理解させるために説かれた譬喩です。

 三草二木の譬

 「三草二木の譬」は法華経『薬草喩品第五』に説かれる譬えです。「薬草喩品」は、開三顕一を法説周、譬説周、因縁説周の三周にわたり説かれるなか、譬説周の述成段(仏が弟子の領解を正しいと認め、その内容を述べること)にあたります。
 譬説周では、『譬喩品第三』の「三車火宅の譬」によって開三顕一を領解した中根の四大声聞(目連・迦葉・須菩提・迦旃延)が、『信解品第四』で「長者窮子の譬」を述べ、開三顕一についての自らの信解を釈尊に申し上げました。釈尊は『薬草喩品』の冒頭、
 「善哉善哉、迦葉、善く如来の真実の功徳を説く。誠に所言の如し」(法華経二一四)
と、その領解が仏意に適うものであることを認め、さらにそれを証明せんとして「三草二木の譬」を説かれたのです。

 ・譬えの概要

 三千大千世界(全世界)には山川や渓谷があり、その土地には様々な草や木、薬草などがたくさん生い茂っています。
 そこに密雲(厚く重なった雲)が立ちこめてあまねく世界を覆い、雨が一時に等しく降り注ぎました。その雨は、小樹・大樹(二木)、さらに、大薬草・中薬草・小薬草(三草)の根や茎、葉や枝までもことごとく潤します。これらの三草二木は、その力に応じて潤いを受け、生長し、それぞれの華や菓を実らせたのです。
 この譬えのなかの「密雲」とは仏のこと、降り注ぐ恵みの雨とは仏が説かれた教えのこと、これを受けて生長する草木は一切衆生を譬えています。特に、小薬草は人・天、中薬草は二乗、大薬草は蔵教の菩薩、小樹は通教の菩薩、大樹は別教の菩薩を指すとされます。
 この譬えは、三千大千世界に降り注ぐ雨が等しく大地の三草二木を潤すように、仏は純円一実の法華経によって、一切衆生を等しく成仏に導き入れようとしてきたことを教えられているのです。
 『薬草喩品』に、
 「一地〈いちじ〉の所生、一雨の所潤〈しょにん〉なり」(同二一六)
とあるように、大地の草木には様々な種類があり、大きさや性質が異なりますが、そこに降り注ぐ雨はすべて同一です。これと同様に、仏は常に一相一味の説法(同一の真理に基づく説法)をもって衆生を等しく成仏に導こうとされます。
 しかし、
 「仏の平等の説 一味の雨の如し 衆生の性に随って 受くる所不同なること 彼の草木の 稟くる所各異るが如し」(同二二六)
とあるように、衆生の性質が千差万別であるために、異なった領解、異なった利益が生じ、三乗が分かれていたことを示されます。そして釈尊は、仏の説法は本来一仏乗の法華経のみであり、二乗・三乗の別なく、ことごとく成仏することを説かれているのです。

 ・平等大慧の妙法

 仏の教法は、一切衆生を平等に成仏させるものであることから、その智慧は「平等大慧」といわれます。
 大聖人は『御講聞書』の「等雨法雨の事」において、
 「ひとしきとよむ時は平等大慧の妙法蓮華経なり。(中略)今末法に入りて日蓮等の類の弘通する題目は等雨法雨の法体なり。(中略)所謂日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是なり」(御書一八四一)
と仰せです。末法における平等大慧の法体とは、宗祖日蓮大聖人が顕わされた御本尊となります。一切衆生は御本尊を受持することにより、等しく成仏することができるのです。

 化城宝処の譬

 「化城宝処の譬」とは『化城喩品第七』に説かれる譬喩です。
 『化城喩品』で釈尊は、富楼那〈ふるな〉等に対し、三千塵点劫という久遠の昔より続く、仏と衆生との宿世の因縁を説かれました。これは三周説法のうちの因縁説周にあたり、法説周・譬説周の説法によって開三顕一を領解することができなかった、下根の衆生に対する教説となります。
 『化城喩品』の前段では、三千塵点劫の昔、大通智勝仏が出現して法華経を説き、その子供である十六人の王子が、十方の国土において法華経を覆講(再び講説)したことが説かれます。
 そして、娑婆世界において法華経を覆講した十六番目の王子とは釈尊であり、インド出現の釈尊の法華経の会座に連なる二乗は、過去世で十六王子から教化を受けた衆生であることが明かされます。
 釈尊は、二乗も過去世に仏種を植えられた者たちであり、今こそ法華経により成仏すべきであると説かれるのです。これを受けて化城喩品の後段に示されたのが「化城宝処の譬え」となります。

 ・譬えの概要

 五百由旬の遠い彼方には無量の珍宝を具えた宝処があり、その道をよく知る聡明な一人の導師が、多くの人々を導いて宝処に向かって出かけます。しかし、その道中は遠路・険路であったため人々は疲れ果てて、三百由旬あたりで一歩も進むことができなくなり、引き返そうとします。導師はそれを憐れみ、方便力により、三百由旬を過ぎたところに一城を化作し、人々を休息させます。
 人々は大いに喜んで、宝処に到着したつもりになって、進もうとしなくなってしまいました。すると導師は、化城を滅し「この化城は目的地ではない。一時の休息所である。宝処は近い」と言って、人々を励ましたのです。
 「五百由旬」とは仏道が長遠であること、「導師」とは仏、「多くの人々」とは一切衆生、「三百由旬の化城」とは三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の悟り、旅の目的地となる「宝処」とは、一仏乗の成仏の悟りを譬えています。
 つまり、導師が化城で人々を休息させた後、宝処に向けて出発を促したことは、三乗の教えが一時の方便であり、仏の本心は常に一乗真実の法華経によって衆生を成仏に導くことにあることを示しているのです。

 ・化城即宝処

 大聖人は『御義口伝』に、
 「所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、色心を妙法と開くを化城即宝処と云ふなり」(御書一七四五)
と説かれています。
 すなわち、私たち衆生の色心(身と心)が煩悩にまみれていると考えるのは化城であり、日蓮大聖人の弟子檀那として題目を唱え、煩悩を浄化して成仏の境界(宝処)に至ることが叶うことを、化城即宝処として御教示されているのです。
 大聖人は『御講聞書』や『御義口伝』で、「三草二木の譬」「化城宝処の譬」をもって、末法の一切衆生は、御本尊を受持して題目を唱えることにより、等しく成仏を遂げることができると御教示です。
 私たちは、そのことを知らない人々に対し、慈悲の折伏によってそれを教えていく使命があるのです。

  次回は、「三箇の勅宣」について掲載の予定です。

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