大白法 仏教用語解説 三箇の勅宣
仏教用語の解説 (83) 大白法1161 令和07年11月16号
三箇の勅宣
三箇の勅宣とは、法華経『見宝塔品第十一』において、釈尊が法華経を説法する霊鷲山の虚空会上の大衆に対し、自らの滅後に法華経を弘通するよう三度勧め、命じられたことをいいます。
勅宣とは、鳳詔や諌勅ともいい、尊貴な方からの命令の意で、この場合、仏の命令を意味します。
日蓮大聖人は、『寺泊御書』(御書四八六)や『開目抄』(同五六二)等にこの三箇の勅宣を挙げて、末法において法華経を弘め、一切衆生を救うことこそが仏の本願であると説かれています。
三箇の勅宣に至る経緯
釈尊は、法華経『方便品第二』から『授学無学人記品第九』までの八品にわたり、仏の教えには本来、声聞・縁覚・菩薩といった三乗の違いなどなく、ただ法華経による一仏乗だけが真実である、との「開三顕一」を説かれました。この八品を、法華経迹門の本論・中心的な教えが説かれることから、迹門正宗分といいます。
これに続く『法師品第十』からは、法華経を広く流布するための教えが説かれており、迹門流通分といいます。まず『法師品』では、法華経を受持・読・誦・解説・書写することの功徳が甚大であることが明かされます。
次いで『見宝塔品』では、七宝で飾られた大宝塔が地面から涌現して虚空に留まり、閉じられた宝塔の中に在す多宝如来は、
「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」(法華経三三六)
と、大音声をもって法華経の教説が真実であることを証明されました。
この宝塔が涌現した意義は、釈尊が説いた開三顕一を証明・顕揚し、大衆の信心を増進させるという「証前」と、過去の仏である多宝如来が出現し、三世十方の無量の諸仏が来集することによって、『如来寿量品第十六』の序にするという「起後」の二つがあります。
大衆は釈尊に宝塔を開いて多宝如来の姿を拝することを願い、釈尊は多宝如来の誓願に従い、白毫より光を放って十方分身の諸仏を集めます。その間、釈尊は三度、国土を広げて無量の国土を一仏国土となし、分身諸仏が集まったのを見そなわすと、釈尊自ら宝塔を開いて、多宝如来と半座を分かち、虚空会における二仏並座の説法が開始されるのです。
この虚空会の説法において、初めに説かれるのが三箇の勅宣です。
第一の勅宣「付属有在」
三箇の勅宣の第一は「付属有在」(付属して在ることを有らしめる)といい、
「大音声を以て、普く四衆に告げたまわく、誰か能く此の娑婆国土に於て、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」(同三四七)
との釈尊の唱募〈しょうぼ〉がこれにあたります。すなわち釈尊は、自身がほどなくして入滅することから、この法華経を広く説く者を募って付属し、法華経を未来永劫に存続せしめようと願われたのです。
天台大師は『法華文句』(法華文句会本下二九)に、この付属有在には正法・像法時代(近い時代)のための迹化他方の菩薩に対する「近令〈ごんりょう〉有在」(近く在ることを有らしめる)と、遠い末法時代のための地涌の菩薩に対する「遠令〈おんりょう〉有在」(遠く在ることを有らしめる)という二意があると述べています。
第二の鳳詔「令法久住〈りょうぼうくじゅう〉」
次に、第二は「令法久住」(法をして久しく住せしめん)で、
「諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に 誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏前に於て 自ら誓言を説け」(同三四九)
との文がこれにあたります。
釈尊は衆生に対し、法華経の会座に多宝如来や十方分身の諸仏が来集したのも、ひとえに法華経を未来の世に久しく住せしめるためであると示し、法華経の流通は、釈尊のみならず三仏(釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏)の望むところであると説かれます。そして、自らの滅後に法華経を護持しようとする者は、今、誓いの言葉を説け、と強く促されたのです。
第三の諌勅「六難九易」
さらに続けて説かれるのが、第三の「六難九易」(法華経三五一)です。
これは、仏の滅後に法華経を弘めることがいかに難事であるかを、六つの難事と九つの易事の比較によって示すものです。六難とは、
@能説難。仏滅後の悪世中に法華経を説くこと。
A書持難。法華経を書き持ち、また人にも書かせること。
B暫読難。仏滅後の悪世中に法華経を読誦すること。
C為一人説難。仏滅後に法華経を持ち、一人のためにも説くこと。
D問義難。仏滅後に法華経を聴受してその義趣を問うこと。
E奉持〈ぶじ〉難。仏滅後に法華経を受持すること。
この六難の比較として示される九易については、すべてを挙げませんが三つほどを挙げれば、
・須弥山を手に取って他方の国土に投げること。
・足の指で大千世界を動かして他国に擲〈なげう〉つこと。
・枯草を負って大火に入り、焼けないこと。
などです。九易として示される事柄はすべて至難の業ですが、仏滅後に法華経を受持し弘通することに比べれば、まだ易しいと説かれるのです。
そして釈尊は、改めて仏滅後に法華経を受持する誓いを立てるよう勧められ、
「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり 是の如きの人は諸仏の歎めたもう所なり 是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れ戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく」(同三五四)
と示されます。
仏滅後に法華経を受持することは難事であるが、これを受持すれば勇猛精進の者として諸仏の讃嘆を仰ぎ、持戒の者、真の修行者といわれるであろうと、受持即持戒を説くのです。
上行菩薩に対する要法付嘱
法華経迹門の流通分で釈尊は、滅後の弘経を繰り返し勧められ、そのための誓いを起こすように強く促されました。
しかし、『涌出品第十五』に至って迹化他方の菩薩が滅後の娑婆世界における弘経を願い出たとき、釈尊は、
「止みね、善男子。汝等が此の経を護持せんことを須〈もち〉いじ」(同四〇八)
と制止し、地涌の菩薩を召し出されました。そして『神力品第二十一』において法華経の肝要を付嘱し、滅後末法の弘経を託されるのです。
日蓮大聖人は、地涌の菩薩の上首、上行菩薩の再誕として末法に出現され、法華経に説かれる様々な難を忍び、末法万年の一切衆生のために三大秘法を建立して法華経の行者としての実証を示されました。
大難を忍ばれた御本仏大聖人の大慈大悲の御化導を拝すとき、私たちは自らが地涌の流類として三箇の勅宣に思いをいたし、自行化他の実践によって仏恩に報いていくことが大切です。
次回は、「内鑑冷然・外適時宜」について掲載の予定です。
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